芸術の作法
芸術の分野に限ったことではありませんが
新しいことに挑戦することは、古典を尊重することと同様に大切なことで、これを失えば何事も息絶えてしまうでしょう。
モーツァルトが当時の人が受け容れられないほど新しい音楽を書いたこと、ベートーヴェンが常に新しいものへの挑戦のスピリットを失わず果敢な創造行為に挑んだおかげで、今日の私達はどれだけその恩恵に浴したかしれません。
そういう前提を踏まえたにしても、どちらかというと私(もとより創造者ではありませんが)は音楽に関しては、ある意味保守派だろうと認識しています。
これは音楽そのものというよりは、おもに低下の一途を辿る評価基準への抵抗といえるのかもしれません。とりわけ現代の興行としての演奏および演奏家の在り方には、強い違和感を覚えることが多く、なかなかそれに馴染めないことは否定できません。
リヒテルが蕉雨園でコンサートをしたり、アフェナシェフが日本のどこかのお寺にスタインウェイを持ち込んで演奏したり、五嶋みどりが各地のお寺をまわってバッハを演奏するというようなことをやりますが、あのセンスが私自身はどうもしっくりこないのです。
またコラボというのも個人的にはあまり歓迎の気分は持ち合わせません。むろん全面否定ではないのですが、そこにはよほどの主題とか必然性など、興味を喚起する要素がなくては、ただの意外性狙いの無節操な取り合わせになるばかりです。
スポーツの世界にも異種格闘技というものがあるそうですが、イベントとしてはおもしろくても、真のファンにとってそのジャンルの醍醐味が味わえるようなものとは思えませんし、いわばちょっと酔狂であったり、余興的な世界に属するものだと思います。
ところが
近ごろは変わったことをしないと人が関心を示さないという、音楽市場においてもやむにやまれぬ事情があるようです。それはわかるのですが、だからといってあまりに話題作り目的であったり目立てばいいという心底が透けて見えるようなイベントが多すぎるように感じて仕方がありません。
つい先日もビジュアル系ピアニスト?のブニアティシヴィリが、ドイツのどこだかの森の中へスタインウェイを運び込み、木立の中でピアノを演奏するということをやっていました…が、まるで何かのCM撮影のようで、そのいかにも上っ面の発想という印象しか抱けませんでした。
ピアノの前には形ばかりのわずかな聴き手がいて、この演奏を彼女の「お母さんに捧げる」と銘打った体裁になっていましたが、森、ピアノ、演奏、作品、どれもがバラバラで馴染まず、ひとつとして溶け合っているようには見えませんでした。ただただ空疎な感じが拭えず、聴いている人の後ろ姿もしらけ気味に見えました。
ブニアティシヴィリの演奏は好みではない上に、なにしろ森の中なので、音は悲しいばかりに周囲に散ってしまい、果たしてこの企画にどういう意味や狙いがあるのか、私にはさっぱりわからないままでした。
そもそもピアノを野外に持ち出して演奏するということが、まず自分の体質には合いません。映画『アマデウス』では庭園のようなところでコンチェルトを弾くというシーンがありましたが、あれは音楽家が宮廷のお抱えだった時代の話でしょうし、なにしろ映画です。
わざわざ現代のコンサートグランドを森の中なんぞに持ってこなくても、森や自然にはそれにふさわしい楽しみ方、味わい方があると思います。あれだけの美しい森ならば、ただ自然の音に耳を澄ませながらゆっくり散策するだけでもじゅうぶんに感銘を受け、心の中でいろいろな思いや音楽が鳴り響くはずで、なにもそこで実際にピアノを弾いていただかなくても結構ですという感じでした。
要は
森でもお寺でも、安易な思いつきだけで変な使い方や取り合わせをすると、その透徹した美はかえって反発し合い、殺し合い、魅力が損なわれてしまうように思えてなりません。
すべての世界には侵してはならない見えざる境界が自ずとあるはずで、それが作法だと思いました。